アドラー心理学入門

心理学について興味がでてきた。

アドラー心理学入門を読んでみた。

「目的論」

「人は原因によって後ろから押されて生きているのではなく、目的を設定しそれを追及する」

たとえば、怒るという行為も子供の行動につい怒ってしまった。というのは原因論。

そうではなく、怒るタイミングを見計らっていて子供の行動をきっかけとして怒っているのだという。

「感情が原因で行動が結果であるとは考えません。私たちが感情をある目的のために使うのであって、感情が私たちを後ろから押して支配するとは考えません」

「感情はこのように私たちの心の中にあるのではなく、私たちと相手の間にあるのです」

目的や目標がまずあってその目的の実現のために行動したり、感情とか思想を創っている。そうだ。

ついカッとなって殴るのではなく、殴ろうと思って感情を使って殴るのだ。

 

「ほめるのではない」

「褒めるというのは、能力のある人が能力のない人に、あなたは良いと上から下へ相手を判断し評価する言葉ですから、下に置かれた人は愉快ではないのです」

褒められる事に過剰に反応し、それがまたプレッシャーになるという。

たしかにわからなくもない。

「子供達はあたかも、自分を実際よりも大きく見せるために、つま先でたち、そしてこの簡単な方法で、成功と優越性を得ようとしているかのようである』とアドラーはいう」

「普通である勇気がないので、特別に良くなろうとして、これが果たせない場合、特別に悪くなろうとするのである」

ようはかまって欲しいのである。

アドラーはこのような意味での優越性の追及、すなわち、ことさらに他の人よりも優れていなければならないと考える優越性の追及を優越性コンプレックス、そしてこれの対となるのが劣等コンプレックスで優越コンプレックスがこれを隠していることがある、と考えます」

異常に自慢するやつ、異常にマイナス思考なやつ、ようはみんなかまって欲しい為の手段なのだ。

ではどのように子供を育てていけばいいのか?

「評価するのではなく、喜びを共有すること、自分の気持ちを伝えることは勇気づけになります。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して『ありがとう』とか『うれしい』とか『助かった』といってみます」

とてもシンプル。でも下心があって使ってはいけない。ありがとうと言われたいが為に、善いことをする。という感情は再びそれがプレッシャーになるという。

存在していること。それだけで良いのだ。生きていることにありがとう。

日常でなかなかこれを伝えるのは難しい。。

というのも、親自体がそのような穏やかな感情でないと言えないよね。気持ちのこもった「ありがとう」

 

「課題を分離する」

勉強しない。これはだれが困るの。そう、本人。

親の問題やないよね。勉強しなさい。と言われることは、子供の課題に踏み込んだことになる。すると子供との衝突は避けることができない。

見守るということはとても忍耐力がいる。

自分で必要と思えば、飯も食うし、風呂も入るし、勉強もする。

子供に教えるのは勉強することが、自分の為になるよという事を悟らせる事。

親と心理療法士はやるべきことは似ているのだ。

 

「横の関係と健康なパーソナリティ」

「教師と学生は同じではありませんが、人間としては対等なのです」

「問題は、人がもはや親からの保護を必要としなくなっても、なお親からの保護を求め自立しようとしないことがあるということ」

「頼まれもしないのに口出しをし、手出しをすることは自分の優越感を満足させるだけの行動であって、相手を対等の存在とは見ていないのです」

親も親、子も子の問題に向き合い、前に進んで行く。エゴは人を不幸にさせる事がある場合があるということでしょうか。。

「あるゆる人と対人関係の中で横の関係でいられるとすれば自分をよく見せようという努力をしなくてもいいことになる」

自己受容

まずは自分を受け入れること。「大切なことは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかである」

他者受容そして他者貢献

でも他者に自己を支配されてはだめ。非常に距離感が難しいなと思う。

人間は一人では生きていけない。集団のなかで自分の居場所を見つけることができれば、自信もてますよ。ただ、特別である必要はないからね。今のあなたでいいの。

一人一人自分を見つめゆっくり前進していこうやないか。的な感覚か。

 

ギリシャ哲学とアドラー

アリストテレス

彫像を作るには粘土(素材因)が必要で、製作する彫刻家(作用因)がいないといけない。そしてモデルもしくはイメージ(形相因)がいる。さらに、そもそも彫刻家が作ることを望まなければ彫像は存在しない。なんらかの目的のために作ろうとする(目的因)がいるのである。

この「目的因」はソクラテスが獄に留まる「真の原因」に相当する。

甘やかされた子供がいるとする。甘やかす母親は「作用因」である。甘やかす親を「善し」と判断した場合、自分にメリットがあると判断した時、その働きかけを自分の目的のために使うのだ。

善い=ためになる *ギリシャ語でいうところの

悪=ためにならない

「誰一人として悪を欲する人はいない」ソクラテス

ここまできて思うのは自分の善と他者、社会の善が同化できればとても幸せになるのではないか。ということ。

そのプロセスとして、自己受容→他者受容→他者貢献ではなかろうか。

 

私的感覚としての世界はたしかに個人が構成したという意味では仮想であっても、それとは別の絶対的な基準となるような世界を想定し、それのみが真実であると考える必要はない」

「個々の場面でそれぞれが私的感覚を持っている者同士が共通の言葉を探し出して、より『善く』生きる方策を探し出していくしかないのです」

万能の勇気づけの言葉は存在しないということ。

「勇気づけは相手と共に構成された現実のなかでのみ意味をもつ」

 

「劣等コンプレックスは、心の中で起こっている現象ではなくて、このようにむしろ対人関係の中でのコミュニケーションのパターンに他ならず、人生の課題を回避するための口実を持ち出すこと」=人生の嘘

「実際には何も因果関係のないところに、因果関係を見出すということですが、そうすることの目的は、自分の行動の責任を他の者に転嫁すること」

「私たちは経験によって決定されるのではなく経験に与えられた意味によって自分を決めるのである」

厳しい。でも勇気があればいつでも自分を変えられる。変わろうと思えるかどうか。

「わかっているができないという時、実はできない(cannot)のではなく、したくない(will not) のです」

自分で人生を作っていくのである。

「一般的な人生の意味はない。人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」アドラー

挑戦しないのはやればできるという可能性を残しておきたいのであって、実際に勉強してできないという現実に直面することを恐れるのです。

自分が本当に望んでいることはなにか?

自由であるということは、それに伴う責任も引き受けるということでもある。

「鳩が飛ぶのを妨げているかのように見える空気は実は鳩が飛ぶのを支えている。何もないとこには自由はなく、抵抗があるからこそ自由であることができる」

 

楽天主義 何が起こっても大丈夫だと思い何もしない

楽観主義 現実を見据える。現実をありのままに見て、そこから出発する。

「今日ここでこうして接しているこの人との関係を少しでも変えようと努めることが、ひいては全人類を変えることにつながる」

 

心理学の世界に少しずつ踏み入れているが、実際人と話していて相談や愚痴を聞いている時、今までとはまた違う聞き方をしているなと実感している。

この人の無意識な部分。本当は何を求めているのか?今、どのような言葉をかけることが、気づきにつながるのか?

脳の細胞たちがぐわっと活動している感覚。おおげさかな?

とても面白い。ただわかった気になって思考を止めたり、自分の出した結論に固執すると失敗するのだろうなとも思っている。

何事にも謙虚さが大切なのだ。